はじめに
「今は亡き王女のための、って言う村上春樹が書いた短編小説知ってる?」「ううん。知らない。」
「とっても甘やかされて育った美少女がいて、その少女は天才的に人を傷つけるのが上手くて、とてもモテる。でも最後にはダメになってしまうって話しなんだ。」
「なんか、悲しくない?」
村上春樹さんの小説に何かを語る事について
村上春樹さんの本について何かを書くと言うのは、とても緊張する行為です。僕は、小学生の時に家の本棚にノルウェイの森が置いてあったのを手にとって読んでから、20年以上村上春樹さんの小説のファンです。
でも、未だに人が評価した村上春樹さんの小説は、何か違うと感じてしまいます。
そのくらい、村上春樹さんの小説と言うのは、読み手の感じ方によっていろいろな読み取り方がある小説なんじゃないかと思います。
ある断面について語る事は出来ても、裏側には別な景色がある。
そんな気がしてなりません。
それでもなを村上春樹さんの小説についてなにかを語るならば、やはりこの短編小説を一番にしたいな、と思ってしまいます。
とても短い短編小説
A4用紙に印刷しても、20枚もいかないくらいに短い小説です。そこに書いてあるのは、僕らがいつも使っている日本語で、特別難しい言葉や学術的な発見が書いてあるわけでもないのに、こんなに長い間人の心に残り、ある意味では人の人生を少し変えてしまったりする。
誤解を恐れずに言えば、実はたいした事を言っているわけでもないのに、も関わらず。です。
村上春樹さんの小説は、改めてただの言葉として印刷してみると、本当に不思議なものです。
回転木馬のデッド・ヒート
「今は亡き王女のための」と言う短編小説は、回転木馬のデッド・ヒート と言う単行本の中に収録されています。Wikiによれば、1985年に発売されて、1988年に文庫化されたとの事。
回転木馬のデッド・ヒート - Wikipedia
僕が手にしたのは、高校生の頃だったので、もう1990年代に入っていたように思います。
回転木馬のデッド・ヒート の中には他にも、レーダーホーゼン、タクシーに乗った男、プールサイドなどの短編小説も収録されています。
ストーリー
大事に育てあげられ、その結果とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女の常として、彼女は他人の気持ちを傷つけることが天才的に上手かった。
美少女でスポイルされ、他人を傷つけるのが天才的に上手な女の子。
主人公の「僕」は、大学時代に友達の家に居候しなければいけない状況(ガールフレンドとこじれて)になって、その友人が所属していたスキーサークルの仲間たちと関わる事になった。
そのスキーサークルのメンバーだったのが、「天才的に人を傷つけるのが上手な」彼女だった。
主人公の「僕」は、はじめから彼女が苦手で出来るだけ関わらないように避けていた。
ある日、友人たちと雑魚寝をした夜中の三時、目を覚ました「僕」は、彼女を腕まくらして寝ていた事に気づく。
出来るだけ気づかれないように手を引き抜こうとするものの、彼女はむしろ身体を寄せてきた。
お互いに、その後の行為を意識しつつも、そうはせず、しばらくすると身体を離してもう一度寝た。
それ以来、十二、三年たつが、彼女には会っていない。
でも、彼女の夫と言う人物と会い話しをする機会があった。
そして、彼女の現在を知る事になる。
「魅力的な人でしたね」と僕は言った。「お元気ですか?」
「そうですね、まずまずというところです」と彼は言葉を選ぶようにゆっくりとしゃべった。
「どこか具合が悪かったんですか?」と僕は訊ねてみた。
「いや、べつにとくに体を壊したというわけではないんですが、まあ、あまり元気ともいえない時期が何年かありましてね」
いったいどこまで質問していいものか判断できなかったので、僕は曖昧に肯くだけにしておいた。それに正直なところ、僕はその後の彼女の運命をどうしても知りたいと希求していたわけでもなかったのだ。
男性の女性像、女性の女性像
村上春樹さんの小説について、女性と話しをすると、必ずどちらかの反応が返ってきます。- 気持ち悪い
- すごく好き
若い頃、「気持ち悪い?なんで?」と思って、いろいろ聞いてみたのですが、性描写が卑猥と言う意見が大多数でした。
歳をとってみて思うのですが、それはそれで、感覚と、感想としては、(短い時間で端的に述べなければいけないと言う意味で)正しい答えだったのかもしれませんが、なんとなく違うんじゃないかな?と思います。
村上春樹さんの小説に出てくる女性像は、男性が理想として描くような女性と、「何故か」主人公の「ぱっとしない(であろう)」僕が「何故か」好かれる、と言うシュチュエーションが多いと思うのです。
男性の方は、少女マンガって読んだ事ありますか?
背が高くて、目がキラキラしていて、お金持ちで、ぱっとしない主人公の女の子にも優しくて、何故か、好きになってくれる男が出てくるマンガ。
あの気持ちの悪さに近いんじゃないか、と思うのです。
若い頃、読んでいた時には、はっきりいって、全く気にならなかったのですが、歳をとると、確かに、村上春樹さんの小説には、そういったものに近い「妄想」を強く意識してしまいます。
そして、悲しい事に、男と言う生き物は、ほとんど妄想だけで生きているような生き物なんだよなぁ、と改めて自分の事を思ってしまいます。
それでもなを心に残る
素晴らしい美少女と、何故か一緒に寝る事になり、お互いにそうなるかもしれない可能性を感じながら、そうはならずに別れ、その後何年かして再び出会う。そんな事あり得ないですよね?
でも、悲しいかな、若いと言うのは、それに近い状況を多かれ少なかれ経験をするのもでもあるのではないでしょうか?
誤解がないように、補足すると、あくまでも、男性側の感じ方として、と言う限定はつきますが。
そして、男性と言うのは、たいてい、あったことではなく、あったかもしれない事に思いを巡らせて生きていることが多いのです。
どうしようもない。だけど。
そんなわけで、若く可能性に満ちていて、(あるいは、慰めとしてそう思っている)男性にとっては、こういう事があった、こういう事があるかもしれないと言う疑似体験を、村上春樹さんの小説は満たしてくれているのではないでしょうか?これだけ聞くとどうしようもない男の話しのようですが、誰かが言っているように脳はだまされる。
実際に経験した事と、疑似体験として経験した事の違いは、脳としては区別がつかないらしいです。
なので、全然そんな経験したことがなくても、疑似体験として経験しておくと、その時自分がどうするかと言う判断には少なからず影響を及ぼします。
1980年代、まだまだ、小説にとってのタブーが多く存在した時代に、これだけまっすぐ性描写も含めて読書に問いかけた、村上春樹さん、及び、村上龍さんというのは、今考えてもやっぱり異質でしたね。
刹那的な
実は、若い頃は、美少女がのちに崩れる場面が、やっぱりそうだよなぁ、と思ったものですが(そうなって欲しいと言う欲求もたぶんにあったのですが)、今は、そこはどうでもいいです。この小説も最も重要な部分は、スポイルされつくした人間が、はい、やっぱりダメになりました。と言う事ではなく、男性がどんなに嫌いだ、苦手だ、と言っても、やっぱり美少女でスポイルされ、人を傷つけるのが天才的に上手い女性に惹かれてしまう、と言う事ではないでしょうか。
ファミリーマートでTSUTAYAのカードを提示してタバコを買いました。
と言う映画と、
エイリアンが地球征服に訪れました。
と言う映画。
どちらもくだらないけど、きっと多くの人が、エイリアンの映画を選ぶように、ある時期において、男性は刹那的でも刺激を選ぶ。
それは、間違いないように思います。
でも、そう考えると、美少女でスポイルされ、他人を傷つけるのが天才的に上手な女の子の人生っていったいなんなのでしょう?
誰もがチヤホヤする時期を経て、誰もが彼女のその後の人生には、興味を持たない。
あぁ、昔すごい美少女がいたなぁ、あの子どうしてるかなぁ、とは思っても、一緒に人生の苦楽を共にしたいとは、誰も考えない。
そして、ダメになってしまう。
「なんか、悲しくない?」
最後に
何度も書いては消し、書いては消し、しながら書いてみましたが、やはり本当に伝えたい事が書けている気がまったくしません。素晴らしい小説が往々にしてそうであるように、この短編小説もまた、読んだ人が感じるものが全てであって、第三者がとやかく言うべきものではないのかもしれません。
それでも、今まで村上春樹さんの小説はなんかなぁと思っていた人がひとりでもちょっと読んでみようかな、と思っていただけたならとても嬉しいです。
とにかく短いので、読むのが早い人ならお風呂に浸かっている時間で読めてしまうかと思います。
「回転木馬のデッド・ヒート」は連作ではないので、気が向いたらその短編だけ読んで楽しめます。
秋の夜長に、ちょっと切ない短編小説いかがでしょうか。
以上です。