長らくコンピュータに関わってきた人間が必ず一度は感じる感覚、世の中の全ての事象は0か1で表すことができる。
そんな感覚を真っ向から否定する本「量子コンピュータとは何か」
悲しいことに、本書を読んでも、量子コンピュータとは何かを理解することはできません。
理解できない、と言うのは語弊があるかもしれません。
そもそも理解するとは、今まで自分が経験なり学習したある事象に当てはめて近い事象から自分なりに解釈する作業ですが、そもそも量子コンピュータとは今までの技術に当てはめることができないのです。
常識を疑えるか?
ある入力に対して、ある出力がある。コンピュータを触ったことがある人ならば、その出力が必ずひとつの出力を返すことを期待し、またそうでなければならないのですが、量子を扱った場合、そうではない。
ある量子は、ここに存在し、同時にあそこにも存在しうる。
ドッペンベルガーのような存在だと本書では言います。
ある量子は0でありながら同時に1である。
ハッキリ言って、何を言っているのかわかりません。
では、何故僕にはこの事象が理解できないのでしょうか?
我々は、ある法則に従って生きています。それは、ひとりの人は、同時にふたつ以上の場所には存在しえないこと。
ある水や電流のよつな物体を流したとして、それを右にも左にも振り分けなければその場で留まるか、そのまま直進するか、あるいは二手に分かれて半分になること。
右にも左にも全く同質な物体が流れ、右に流れた物体は、イコール左に流れた物体であることなどあり得ない。
その思い込みが全て否定されます。
改めて思考するとは、ある土台の上に限定されることだと気づかされる
本書では、丁寧すぎるほど丁寧に我々が持っている常識で考えていては理解できないと諭してくれます。それでもなを何を言っているのかまるで理解できません。
繰り返し、ある物質がある地点に同時にあることを理解するように諭されてもそれを実態として理解できない。
凝り固まった頭、と言う表現がありますが、生きる上でそのルールを無視しちゃったらそもそもの会話が成り立たないでしょ!と言いたくなることが量子の世界では当たり前のようです。
突き詰めると、どうでもいいのかも?
落ち着いて論理的に考えれば大抵のことには説明がつく。それはある程度はそうなのだと思いますが、我々の身体や脳を構成する要素を考えれば、ある時には0であり、同時に1であると言うのは、もしかしたらむしろそのほうが自然なのかもしれません。
後天的に得た知識や常識において、良識的に考えればこのような状況下において、人間はこのように行動すると定義される学問はたくさんありますが、あらゆる学問が矛盾とヅレを孕んでいます。
そもそも、あるルールや公式に自然界の行動や認識、思考を当てはめようとすること自体が不毛なのかもしれません。
あらゆるものごとは、ラグビーボールのように予測不可能な方向に跳ね、それすら計算できると思った途端に、実は地面だと思っていた場所が、水面に移った反対側の世界であるのかもしれません。
最後に
量子コンピュータは実現されるのか?それは、今現在ハッキリとした答えが出ていないようです。
少なくとも人間が認知できるのは、どんなに複雑な挙動をする物質であれ、ある入力においてはある出力を出すのもしか認知できません。
その域まで、ある穿った言い方をすれば退化させなければ悲しいことに人間には理解不能な状態でしかなく、使い物になりません。
しかし、僕のように頭の堅い人間にはいよいよ持って理解できない世の中になっていきそうです。
頭を使って仕事してます、なんていつまてま言えるのかなぁ。
以上です。